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和歌講座 その参 [和歌]

ではでは、ここらでいよいよテクニカル中のテクニカルな歌を扱ってみましょう。

教科書でもおなじみの『伊勢物語』「東下り」の中の一首です。
在原業平の作ともいわれる次の歌、

からころも着つつなれにしつましあれば はるばるきぬる旅をしぞ思ふ

在原業平とは、百人一首でも歌をとられていますね。

ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれないに水くくるとは

秋の見事なもみじの様子を歌い上げております。
このように業平さんは、歌を得意とした男です。
その見事な腕で女の心もわしづかみにしたのでしょうか。
『伊勢物語』では、そのプレイボーイっぷりを発揮しております。

さて、先ほどの歌には、どのような技巧が使われているか、見ていこう。

①枕詞
これは五文字と決まっている。そしてある言葉を修飾するために常にセットになる言葉のこと。
たとえば、「光」をたとえるのに「ひさかたの(日射方の)」、「母」をたとえるには「たらちねの(垂乳根の)」など。
ここでは「からころも(唐衣)」が「着る」に続いていく枕詞になってます。

②掛詞
さぁ、ここからいよいよ、『古今集』に大人気のテクニック「掛詞」を紹介します!
掛詞とは、ある言葉に二つの意味が掛けられていることを指します。
たとえば、「あきがきた」は「秋が来た」という意味と「飽きがきた」つまり「飽きちゃった」という意味の二つがある。というように。
よくある言葉としては、ほかに「うらみ」→「浦見」と「恨み」、「かれる」→「枯れる」と「離れる」などがあります。
ここでは、次のカタカナに変えた部分がすべて掛詞になってます。

からころも着つつナレにしツマしあればハルバル キヌル 旅をしぞ思ふ

まず「ナレ」と「ツマ」について。
「萎れー褄」でセット。「馴れー妻」でセット。
唐衣という衣装を着すぎて、糊がとれてよれよれになってしまったという意味の「萎れ」。衣装の裾を表す「褄」。
その言葉には、「長年慣れ親しんだ妻」という本音の意味が隠されています。

次に「ハルバルキヌル」について。
糊がとれちゃった衣を洗濯して干す、、、その時にパンパンッとやりますよね?そのことを「張る」という。
ここでは「ハルバル=張る張る」と二回繰り返して強調してます。そして、「キヌル」は「着た」という意味。
その言葉に、「遙々(ハルバル)やって来た(キヌル)旅」という、これまた本音の意味が隠されています。

つまり、掛詞を使うことで、「唐衣を着てよれよれに萎えちゃった衣装を、洗ってパンパンッとやって干したぞい」という、ただの表面的な意味の背後から、「長年慣れ親しんだ妻を都に置いて、こんなところまで遙々やって来た長旅を思うと、今妻は元気でいるだろうかと案じることであるよ」という本音が立ち現れてくる、という手法なんだね。

③序詞
今言ったように、表面的な意味と本音の意味の二つがある。
いわば、表面的な意味のほうなんて、解釈しなくたっていいってこと。
「からころも着つつ」までは、衣装のことしか表してない。
それに対して「なれにし~」からは、本音の「馴れにし~」という意味が現れてくる。この本音が重要なんだ。
つまり、「からころも着つつ」は「なれ」という言葉を呼び出すために使われたってこと。
こういうのを「序詞」と言います。

さて。
この男、「身を要なきものに思ひなして」、京都から東国へ流れてきた。
自分に近しい男たちだけを伴ってね。
だから、妻は都に残したままになっている。勝手に一人で置いてきたくせに、と言いたくなるが、ここまで遠くにやってくると、ふっと妻のことが思い出されてしまった、というときに詠んだ歌が今の歌。
とっさの想いを、見事に掛詞にして歌い上げてくれるところが、すばらしいっすね。

しかもこの歌、川沿いに「かきつばた」なる花が咲いているのを見たのがきっかけで詠まれたものなんです。

歌の中に「かきつばた」が咲いているのがわかりますか?

五七五七七の、それぞれの頭を見てごらん?
「か」「き」「つ」「ば」「た」から始まっているでしょ?
こういうのを「折り句」と言います。

もはや、ため息しか出ません。

まろは、この当時に生まれてなくて本当に良かった、としみじみしてしまうのでした。


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和歌講座 その弐 [和歌]

やあやあ、久しぶりです。
とうとう年度越えをしてしまいました。
昨年度は、ばっちり毎日働いておりましたが、今年は少し楽をさせていただきやしょう。
非常勤になって、週のうち三日間だけ行かせていただきます。
そしてそして、予備校でも教えることになりました~。
こちらは週に一回のみ。
現在は春期講習中でございます。

ってな私事などどうでもよく・・・。
和歌講座が全く進んでおりませんで、あいすみませ~ん。(ですよ風)

もうすっかりどんな授業をやったっけか?ってな気分ですが、
前回は
①梅の花咲ける岡辺に家をれば乏しくもあらず鶯の声
②春立てば花とや見らむ白雪のかかれる枝に鶯の鳴く
という二つの和歌を並べたところで終わってましたね。

最初の歌は、とっても素直な歌ですね。
梅の花が咲いている岡に住んでいるから、鶯の声がよく聞こえるわい。
という歌。
二つめは、
春になったので、梅の花と見間違えたのかな。白雪が降りかかっている枝で鶯が鳴いているよ。
という歌。

基礎知識として、「鶯」と「梅」はセットになっているということを知っておいてくださいな。
花札で遊んでいたまろは、自然と身についていた知識ですが、今時の子はあんまり知らない。
たとえば「花」といえば、古今集の時代では「桜」を指すのだけど、②の歌では「鶯」とセットになって「梅」の花を指しています。臨機応変にね。

さて、①は非常に素直な歌なんだけど、②はどうかい?
梅の花と見間違えて、鶯さんが雪の降っている枝で鳴いてる・・・って、おい。
ってことは、前回でも触れたよね。
この場合、梅は梅でも「紅梅」ではなくて「白梅」だね。雪の比喩なんだから。
雪を梅にたとえている、こういうのを「見立て」の技法っていうんだよ。
古今集で大人気な技法なんだ。
こういうテクニックを用い出すのが、新しい歌の特徴です。

でも、テクニックがなんぼよ!?と思う人は、今も昔もいますね。
たとえば、正岡子規なんかは、この手の歌が大嫌いです。
「誰が見間違えるかってーーーの!!」と言ってまして、だんぜん万葉集派の方なんです、はい。

古今集には似たような歌で、こんなのがあります。
心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花
(当て推量で、折るなら折ってみましょうかね、初霜がおりて、どこにあるかわからなくなっている白菊の花を。)
つまり、初霜を白菊に見立てている歌なんですねえ。
でも、正岡子規風に言えば、「どこの世界に、初霜と白菊の見分けがつかなくなる人間がいるんだよ??おうおう!」ってな感じでしょうかね。

でも、ここで白菊を雪ではなくて霜に見立てているのは、なかなかじゃないか。
雪はべたーっとした感じで、ただ白いだけしか白菊に似てないけど、霜はつんつんしてるでしょ。
菊の花びらも、一枚一枚つんつんしてるじゃん?
だから、適当に冬で白いから雪!ってたとえちゃうんじゃなくて、ちゃんと見立てになるように「初霜」を選んでいるわけなんだね。うまいじゃないか。

だんぜんまろはテクニカルな歌にはまっちゃいます。
「むべ山風を嵐といふらむ」とか。
あの、一歩遅れて、「あぁぁ~あ!」となる瞬間、、、、くぅ~、たまりまへん。


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和歌講座 [和歌]

古文で重要なもの。
それは和歌の解釈です。
センターでもそうだけど、「和歌」についてはある程度の知識が常に要求されています。
今回は、姫君が白菊の絵を墨で黒く塗りつぶしたことから、按察使の君が詠んだ和歌についての解釈が聞かれましたね。

何年も前になりますが、中三の家庭教師をやっていたとき、その生徒は和歌がわからない(シャレじゃありません。)と嘆いておりました。
まろもそうでした。というか、今でも何でもわかるわけじゃあございません。
奥深いものですからね。
詠むたびに新たな詠みが生まれやすい。
難しいけど、面白い。
しかしそれを味わうのは、なかなか困難です。

今、学校で中学三年生を相手に『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』を読むという授業をしています。いわゆる「三大和歌集」といわれるやつですな。
掛詞とか枕詞とか、懐かしい修辞法を教えなくちゃいかんのですよ。

しかし幸いにも、この学校の生徒たちは中一のころから百人一首テストなるものをやっており、できなきゃ再試もあるという徹底ぶりによって、けっこう覚えていてくれるんで、非常にやりやすくて助かってます。
今日も「春過ぎて~」「心あてに~」と言ったら、半分以上の生徒が続きを言えていた。すばらしいことです。

今日で終わったのは次の歌二首です。
① 梅の花咲ける岡べに家をれば乏しくもあらず鶯の声
② 春たてば花とや見らむ白雪のかかれる枝に鶯の鳴く

以上二つの和歌を並べ、どちらが『万葉集』、どちらが『古今集』でしょう?というクイズを出していきました。まずは現代語訳をやってもらいましたが、その中で「①のほうが「乏しくもあらず」と字余りで難しいから、『古今集』」とか、「①は「鶯の声」と、体言止めになっているから『古今集』」など、意外とよさげな意見がちらほら。
まだ、まろが何も教えていない段階で、「体言止め」とか「字余り」とか知ってるっちゅうのは、嬉しいような寂しいような。別に教えることないじゃん、みたいにね。

まぁ。そうはいってもそこは中学生。
雪が降りかかっている枝を見て、鶯が白梅と見間違えた、と訳していても不思議に思っていない様子。
おいおい。
これを訳してみて、ぷっと吹き出さなきゃ!
雪と白梅、・・・そりゃあ目が悪ければ、そしてそう見ようと試みれば、そう見ても悪くはないけど、普通は見間違えないっしょ。
でも、真面目に勉強しようとしている子たちは、真面目に受け取るんだよね。「へぇ~」ってね。

しかし、重大なことを知った。
今時の子・・・ってうか今時に限らず、子どもたちは「梅の花」を見たことがない!!!
雪と間違える?なんて聞いても、しら~っとしてる。
あれ、梅の花、、、、見たことある人?って聞いても、手があがらない。

これじゃだめじゃん。
和歌鑑賞以前の問題ですな。
こうなりゃ、梅の花の写真なり、実物なりを持っていかなきゃだめざんす。

和歌って自然を詠みこむのが多いから、動植物に疎いと理解も難しいよね。
まろもまだまだ不十分です。
しかしだからこそ生きる楽しみってのもあるものです。

ガーデニング好きの母は、次から次へと花の名前が出てきます。
ウォーキングをしながら、~の花、と教えてくれます。
それを見ると、まろも長生きしたくなってきます。

ではでは、今日はこのへんで。


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