かな文と土佐日記 [土佐日記]
ところで、
『竹取物語』を文学史の中で、
どのように習っていますか?
おそらく、
「現存最古のかな物語」
という位置づけだろうと思います。
では、
「かな物語」の「かな」であることの意味って、
考えたこと、ありますか?
おそらく、
学校では、
それまで漢字・漢文で書いていたのが、
かなで書くことによって、
日本語をそのまま書けること、
心情をそのまま書けることが、できるようになった、
とか、
女性にも読める、かなであることから、
のちの女流文学の発展へつながった、
などなど、
とりあえずの説明がなされているのではないかと思います。
それらも、あながち間違ってはいないのですが、
今回は、
かなであることのおもしろさについて、
触れてみようかな?と思います。
では、前回に引き続き、
『土佐日記』から。
昼になりぬ。今し、羽根といふ所にきぬ。稚(わか)き童(わらは)、この所の名をききて、「羽根といふ所は、鳥の羽のやうにやある。」といふ。まだ幼き童の言なれば、人々わらふときに、ありける女童なむ、このうたを詠める、
まことにてなにきくところはねならばとぶがごとくにみやこへもがな
とぞいへる。男も女も、いかで、とく京へもがなと思ふ心あれば、この歌よしとにはあらねど、げにと思ひて、人々忘れず。(岩波文庫より引用)
(昼になった。今ちょうど、「羽根」という場所に来た。幼い子どもが、この場所の名前を聞いて、「羽根という場所は、鳥の羽根みたいな所なんだろうか?」と言う。まだ幼い子どもの聞いた言葉なので、人々は笑っていると、さきほどの女の子が、次の歌を詠んだ。 ほんとうに、その名のとおり、「羽根」ならば、飛ぶように、都へ連れていってほしいものだ。 と詠んだ。男の人も、女の人も、なんとかして、早く都へ戻りたいと思っているので、この歌が良い歌だというわけではないけれど、なるほどそのとおりだと思って、人々はこの歌を忘れなかった。)
この場面でのキーワードでもある、「羽根」に注目してください。
実をいうと、
『土佐日記』は、
ほかの古文と違い、実に奇跡的なテクストなんです。
ほかの古文は、誰かが書き写したものが、今現在残っているというだけで、
当然、作者が書いた自筆のものではありません。
『源氏物語』でさえ、
紫式部の直筆の写本が残っているわけではありません。
ですから、作者のあずかり知らぬ改編なども、十分あり得るわけです。
では、現在伝わっている写本たちは、どうやって残ったかというと、
写本マニアとでもいいでしょうか、
古典を書き残そうと、文化事業に精を出した代表的な人物がいます。
その名は、藤原定家。
新古今和歌集を選集した代表者でもあります。
『源氏物語』で、今流通しているものは、
この藤原定家が書き写したものが主流です。
しかし、
土佐日記は、
幸運なことに、
紀貫之自筆、というわけではありませんが、
紀貫之の筆跡をまねて、そのとおり書き写した、
と言われるものが残っています。
それらと、
藤原定家が写したものとを比べてみると、
一目瞭然で異なることは、
漢字とかな
の区別です。
紀貫之の筆跡をまねて書いたものは、かなだらけ。
一方、定家が写したものは、漢字変換なされたもの。
では、この違いが、土佐日記を読む際に、どう関わってくるのでしょうか。
さきほどの「羽根」というキーワードを見てみましょう。
紀貫之自筆の模写と思われる写本には、
「はね」とかなで書かれています。
しかし、現在活字となっている文庫や、
定家の書いた写本では、漢字になっています。
次の2つを比べてみてください。
1,「羽根」という場所について、「羽根のような形なの?」と子どもが聞く。
2,「はね」という場所の音を聞いて、「羽根のような形なの?」と子どもが聞く。
1では、そのまんまですよね。
ここは、2のように、音を聞いて、連想をはたらかせて、「羽根」という意味を導き出したため、
その後の子どもの言葉がかわいらしくもあどけなくもなるというものです。
1のように、「羽根」だから、「羽根」なの?と聞いているのでは、なんの工夫も発想もありません。
大人:ここ、「はね」っていう場所なんだってよ。
子ども:え!「羽根」なの?羽根の形してるから??
大人:まぁ、ふふふ。
女の子:ほんとうに「羽根」という名なならば、すぐにでも都に連れていってほしい。
とまぁ、こんな感じで、連想が続いている場面なんですね。
紀貫之は、このように「かな」(=表音文字)を使って、音で遊ぶ場面を多く描きます。
ですから、「羽根」という場所が一体どこにあるのか?を調査しようとする研究者の努力は、
紀貫之の本心からいえば、不毛な努力になるわけです。
ようは、音の遊び、連想ゲームなんですね。
紀貫之の写本が、「かな」ばかりで書かれていたのも、納得できるかと思います。
藤原定家が書いた写本のように、かなをとことん漢字に直してしまっていたら、
この遊びは半減、むしろ全滅してしまうといって過言ではありません。
話を元に戻しますと、
現存最古のかな物語
という、「かな」の意味・意義とは、
それまで漢字で書いていたら、できなかった音による連想ゲームが可能になった
↓
古今和歌集に代表される、「掛詞」の技法を生む
↓
『竹取物語』にも、その遊びがとことん使用されている。
↓
これらの遊びが大流行したのは、「かな」の成立があったからであり、
定家の時代(鎌倉時代)にもなれば、それは廃れるため、
写本も(かなであることの意味に気づかず)漢字に変換されてしまうのである。
言葉で書こうとすると、
すごく難しい。
なかなか上手に伝わらなかったような気がします。
あしからず。。。
『竹取物語』を文学史の中で、
どのように習っていますか?
おそらく、
「現存最古のかな物語」
という位置づけだろうと思います。
では、
「かな物語」の「かな」であることの意味って、
考えたこと、ありますか?
おそらく、
学校では、
それまで漢字・漢文で書いていたのが、
かなで書くことによって、
日本語をそのまま書けること、
心情をそのまま書けることが、できるようになった、
とか、
女性にも読める、かなであることから、
のちの女流文学の発展へつながった、
などなど、
とりあえずの説明がなされているのではないかと思います。
それらも、あながち間違ってはいないのですが、
今回は、
かなであることのおもしろさについて、
触れてみようかな?と思います。
では、前回に引き続き、
『土佐日記』から。
昼になりぬ。今し、羽根といふ所にきぬ。稚(わか)き童(わらは)、この所の名をききて、「羽根といふ所は、鳥の羽のやうにやある。」といふ。まだ幼き童の言なれば、人々わらふときに、ありける女童なむ、このうたを詠める、
まことにてなにきくところはねならばとぶがごとくにみやこへもがな
とぞいへる。男も女も、いかで、とく京へもがなと思ふ心あれば、この歌よしとにはあらねど、げにと思ひて、人々忘れず。(岩波文庫より引用)
(昼になった。今ちょうど、「羽根」という場所に来た。幼い子どもが、この場所の名前を聞いて、「羽根という場所は、鳥の羽根みたいな所なんだろうか?」と言う。まだ幼い子どもの聞いた言葉なので、人々は笑っていると、さきほどの女の子が、次の歌を詠んだ。 ほんとうに、その名のとおり、「羽根」ならば、飛ぶように、都へ連れていってほしいものだ。 と詠んだ。男の人も、女の人も、なんとかして、早く都へ戻りたいと思っているので、この歌が良い歌だというわけではないけれど、なるほどそのとおりだと思って、人々はこの歌を忘れなかった。)
この場面でのキーワードでもある、「羽根」に注目してください。
実をいうと、
『土佐日記』は、
ほかの古文と違い、実に奇跡的なテクストなんです。
ほかの古文は、誰かが書き写したものが、今現在残っているというだけで、
当然、作者が書いた自筆のものではありません。
『源氏物語』でさえ、
紫式部の直筆の写本が残っているわけではありません。
ですから、作者のあずかり知らぬ改編なども、十分あり得るわけです。
では、現在伝わっている写本たちは、どうやって残ったかというと、
写本マニアとでもいいでしょうか、
古典を書き残そうと、文化事業に精を出した代表的な人物がいます。
その名は、藤原定家。
新古今和歌集を選集した代表者でもあります。
『源氏物語』で、今流通しているものは、
この藤原定家が書き写したものが主流です。
しかし、
土佐日記は、
幸運なことに、
紀貫之自筆、というわけではありませんが、
紀貫之の筆跡をまねて、そのとおり書き写した、
と言われるものが残っています。
それらと、
藤原定家が写したものとを比べてみると、
一目瞭然で異なることは、
漢字とかな
の区別です。
紀貫之の筆跡をまねて書いたものは、かなだらけ。
一方、定家が写したものは、漢字変換なされたもの。
では、この違いが、土佐日記を読む際に、どう関わってくるのでしょうか。
さきほどの「羽根」というキーワードを見てみましょう。
紀貫之自筆の模写と思われる写本には、
「はね」とかなで書かれています。
しかし、現在活字となっている文庫や、
定家の書いた写本では、漢字になっています。
次の2つを比べてみてください。
1,「羽根」という場所について、「羽根のような形なの?」と子どもが聞く。
2,「はね」という場所の音を聞いて、「羽根のような形なの?」と子どもが聞く。
1では、そのまんまですよね。
ここは、2のように、音を聞いて、連想をはたらかせて、「羽根」という意味を導き出したため、
その後の子どもの言葉がかわいらしくもあどけなくもなるというものです。
1のように、「羽根」だから、「羽根」なの?と聞いているのでは、なんの工夫も発想もありません。
大人:ここ、「はね」っていう場所なんだってよ。
子ども:え!「羽根」なの?羽根の形してるから??
大人:まぁ、ふふふ。
女の子:ほんとうに「羽根」という名なならば、すぐにでも都に連れていってほしい。
とまぁ、こんな感じで、連想が続いている場面なんですね。
紀貫之は、このように「かな」(=表音文字)を使って、音で遊ぶ場面を多く描きます。
ですから、「羽根」という場所が一体どこにあるのか?を調査しようとする研究者の努力は、
紀貫之の本心からいえば、不毛な努力になるわけです。
ようは、音の遊び、連想ゲームなんですね。
紀貫之の写本が、「かな」ばかりで書かれていたのも、納得できるかと思います。
藤原定家が書いた写本のように、かなをとことん漢字に直してしまっていたら、
この遊びは半減、むしろ全滅してしまうといって過言ではありません。
話を元に戻しますと、
現存最古のかな物語
という、「かな」の意味・意義とは、
それまで漢字で書いていたら、できなかった音による連想ゲームが可能になった
↓
古今和歌集に代表される、「掛詞」の技法を生む
↓
『竹取物語』にも、その遊びがとことん使用されている。
↓
これらの遊びが大流行したのは、「かな」の成立があったからであり、
定家の時代(鎌倉時代)にもなれば、それは廃れるため、
写本も(かなであることの意味に気づかず)漢字に変換されてしまうのである。
言葉で書こうとすると、
すごく難しい。
なかなか上手に伝わらなかったような気がします。
あしからず。。。
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