古典再入門ー『土佐日記』を入りぐちにして [書籍案内]
小松英雄
『古典再入門 『土佐日記』を入りぐちにして』
(笠間書院、2006年11月)
高校の古文の授業では、「男もすなる(なり=伝聞推定)日記といふものを、女もしてみむとてするなり(なり=断定)」という『土佐日記』の冒頭をまずは音読し、「なり」の文法を説明して(「ここは中間にも受験にも出るぞ!」と脅す)、男が書く日記ってのは漢文日記で、女が仮名で日記を書こう!という始まり方だと説明するでしょう。現に私もそうしています。なぜならそのほうが楽だからです。
しかし、実際問題、当時女だって、漢文で日記を書きます。男だって、仮名を使います。それらを考えると、この冒頭は一気にわけのわからない文になってくるのです。そもそも、「男も」の「も」って、どこから来ているのか?後の「女も」の「も」は前の「男」を受けるとすれば理解できます。そして、日記を「書く」ならまだしも「する」って何?「してみむ」という言い方も不明。
これらを始め、この本は、なんとなーくで流されている古文の解釈を、言葉一つ一つを厳密に、積極的に読み解いていくことによって、見えてこなかった『土佐日記』の世界を教えてくれます。もっと言えば、紀貫之の文才のすごさを見せつけてくれます。
仮名のできはじめの当時において、こんな表現技法が駆使されるのかと思うと、今の自分の表現力のなさにがっかりしたりして(笑)
受験用に古文を勉強しようと思う人には、無意味だと思いますが、大学に入って、あるいは古文の魅力(一筋縄では読み解けない重厚感)を味わいたい人にお勧めの一冊です。
私のお気に入りの箇所をいくつか紹介します。
「わたの泊まりのあかれの所といふ所あり 地名人名が出てくるとハッスルして徹底的に調べあげるのが中世以来の注釈の伝統ですから、多くの専門家がこの地名の考証を試みてきました。」(P265)
似たような箇所はほかにもありますが、ここを代表して掲げます。
『土佐日記』は、土佐から京都へ帰国するお話ですから、ここでも言われるように、地名など、具体的にどこなのか?ということが、よくよく取上げられてきました。
高校の便覧で、地図が描いてあるのを見たことがある人もいるでしょう。
それに対して筆者は、
「筆者が尋ねたいのは、それがわかったら、あるいは、それがわからないままだと、この作品の理解にどのように影響するのですか、ということです」と述べる。
まったくもって、共感します。
たとえば、学会で、『土佐日記』について発表すると、
特に西国の研究者たちは、
「実際にその地に行かれたことがありますか?」
と戯けた質問をあびせかける。
そんなおまえらがわけわからん。
それがわかったことで、テクストの読みがどのようになるのか、言うてみぃ!
とやりかえしたら、
おそらく大部分の人は、答えられないか、
牧歌的・ロマン主義的発言しかしないだろう。
そもそも、
この筆者も強調しているが、
『土佐日記』はフィクション(虚構)であるのだから、
具体的にそれが誰とか、どことかがわかることに意味はない。
逆に、貫之は、現実と切り離そうとしている(=フィクションとして作り上げようとしている)のだから、
テクスト生成の意図と反する。
まぁ、そんなこんなで、
いろんな意見を、
ばっさばっさと切り捨てる、実に小気味のよい一冊です。
四国大学で働いていたとは思えない、斬新な発想。
(注 西国は史料主義なので、態度が相反するのです)
値段も、1900円とお安いので、ぜひどうぞ!
『古典再入門 『土佐日記』を入りぐちにして』
(笠間書院、2006年11月)
高校の古文の授業では、「男もすなる(なり=伝聞推定)日記といふものを、女もしてみむとてするなり(なり=断定)」という『土佐日記』の冒頭をまずは音読し、「なり」の文法を説明して(「ここは中間にも受験にも出るぞ!」と脅す)、男が書く日記ってのは漢文日記で、女が仮名で日記を書こう!という始まり方だと説明するでしょう。現に私もそうしています。なぜならそのほうが楽だからです。
しかし、実際問題、当時女だって、漢文で日記を書きます。男だって、仮名を使います。それらを考えると、この冒頭は一気にわけのわからない文になってくるのです。そもそも、「男も」の「も」って、どこから来ているのか?後の「女も」の「も」は前の「男」を受けるとすれば理解できます。そして、日記を「書く」ならまだしも「する」って何?「してみむ」という言い方も不明。
これらを始め、この本は、なんとなーくで流されている古文の解釈を、言葉一つ一つを厳密に、積極的に読み解いていくことによって、見えてこなかった『土佐日記』の世界を教えてくれます。もっと言えば、紀貫之の文才のすごさを見せつけてくれます。
仮名のできはじめの当時において、こんな表現技法が駆使されるのかと思うと、今の自分の表現力のなさにがっかりしたりして(笑)
受験用に古文を勉強しようと思う人には、無意味だと思いますが、大学に入って、あるいは古文の魅力(一筋縄では読み解けない重厚感)を味わいたい人にお勧めの一冊です。
私のお気に入りの箇所をいくつか紹介します。
「わたの泊まりのあかれの所といふ所あり 地名人名が出てくるとハッスルして徹底的に調べあげるのが中世以来の注釈の伝統ですから、多くの専門家がこの地名の考証を試みてきました。」(P265)
似たような箇所はほかにもありますが、ここを代表して掲げます。
『土佐日記』は、土佐から京都へ帰国するお話ですから、ここでも言われるように、地名など、具体的にどこなのか?ということが、よくよく取上げられてきました。
高校の便覧で、地図が描いてあるのを見たことがある人もいるでしょう。
それに対して筆者は、
「筆者が尋ねたいのは、それがわかったら、あるいは、それがわからないままだと、この作品の理解にどのように影響するのですか、ということです」と述べる。
まったくもって、共感します。
たとえば、学会で、『土佐日記』について発表すると、
特に西国の研究者たちは、
「実際にその地に行かれたことがありますか?」
と戯けた質問をあびせかける。
そんなおまえらがわけわからん。
それがわかったことで、テクストの読みがどのようになるのか、言うてみぃ!
とやりかえしたら、
おそらく大部分の人は、答えられないか、
牧歌的・ロマン主義的発言しかしないだろう。
そもそも、
この筆者も強調しているが、
『土佐日記』はフィクション(虚構)であるのだから、
具体的にそれが誰とか、どことかがわかることに意味はない。
逆に、貫之は、現実と切り離そうとしている(=フィクションとして作り上げようとしている)のだから、
テクスト生成の意図と反する。
まぁ、そんなこんなで、
いろんな意見を、
ばっさばっさと切り捨てる、実に小気味のよい一冊です。
四国大学で働いていたとは思えない、斬新な発想。
(注 西国は史料主義なので、態度が相反するのです)
値段も、1900円とお安いので、ぜひどうぞ!
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