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土佐日記冒頭部② [土佐日記]

おかげさまで、
たくさんの方のアクセスをいただき、とても嬉しい今日この頃です!

少しでも、
チラ見でも、
古文に触れてもらえて、
あわよくば、「面白いかも」と思ってもらえることを祈って、

できるだけ更新したいな、と思っています。



さて、昨日の続きです。

土佐日記の冒頭部の後半です。

其年(それのとし)の十二月(しはす)の二十日(はつか)余一日(あまりひとひ)の日の戌(いぬ)のときに、門出す。その由、いささかにものに書きつく。
ある人、県(あがた)の四年五年はてて、例の事どもみなしをへて、解由などとりて、すむ館より出でて、船にのるべきところへ渡る。かれこれ、知る知らぬ、送りす。としごろよくくらべつる人々なむ、別れがたく思ひて、日しきりにとかくしつつ、ののしるうちに夜ふけぬ。



復習もかねて、前半部を読んでおきます。

それの年の十二月二十一日の夜8時ごろに、門出した。その事情を、さっと紙に書いておく。
ある人が、国司としての4,5年の勤務を終えて、例の手続きをすべて終わり、解由などを取って、館から出て、船に乗る場所へ移動した。


ポイントはいくつかありましたが、

たとえば「それの年」とぼかす言い方。
日記のくせに、日付がわからんのかい!とつっこみたくなります。

これを、研究者は、必死になって、紀貫之が土佐から戻るときだから、、、、と史料を調べ、特定しようとします。
が、小松氏はそれを否定。

「それの年」とごまかすところ、つまり、フィクション(虚構)であるところに意味がある。
それを、紀貫之だから、と現実を把握しようとしたら、それこそ、紀貫之の思う意図から外れることになる、と。

紀貫之に照らしてみて、歴史を知りたがる人の気持ちもわからなくはありません。

が、問題はその次です。


そのように、歴史を知ったところで、
土佐日記というテクストの〈読み〉が、いかに変わるのか?
それが、問題です(と、小松氏も言っています)


大抵の歴史と照合したい人は、
照合できたことがゴールだったりします。

そこが最大の欠点だと思います。


さて、話を続けます。
次のポイントは、夜の8時なんていう時間に、なぜ門出したのか?でしたね。
これは、今回お話しようと思います。

次に、「~て、~て・・・」と、「て」で文を急ぎ足でつなげていこうとするところに、
4年ならず、5年までも任国土佐で暮らさざるをえなかった辛さ、早く都へ帰りたいという思いが、にじみ出ています。

では、本日の内容に入りましょう。

太字にしてある「なむ」という係り結びです。

係り結び、と言われて、

「え!!文法??」と嫌悪感をにじませる人、

「係り結びなら、知ってる」と、安堵感を抱く人、さまざまでしょうか。

「なむ」というのは、言葉を強調させる働きがあり、
その後の文末がある程度規則的に、連体形という形に変化して、「。」が来ます。

たとえば、
名をば、さぬきのみやつこといひけり。
が、
名をば、さぬきのみやつことなむいひける。(ける=「けり」の連体形)
のように。
「なむ」をつけることによって、さぬきのみやつこ、という名前を強調させたいんですね。


さて、今回の場面では、「人々なむ、~」の後に、連体形で文末を迎えず、そのまま次の文に続いてしまっています。
これを、「係り結びの流れ」と文法的に説明します。


しかし、
「流れ」というのは、口頭でしゃべるときに、勢いで次に進んでしまったがゆえに生じる現象ではないのか。
土佐日記の冒頭で、まだ始まったばかりの箇所で、
「なむ」の結びが流れてしまうほど、整えて書かないことがあろうか?

と、小松氏は疑問をなげかけます。

そういえば、そうだな、と私も思いました。
まだ、仮名文ができたばかりの当時、ぎこちなくも、丁寧に書き記したのではないでしょうか。
もし、「流れ」が生じているというならば、それは計算の上で流されたものではないか。


ここで、「日」と「夜」の対応が続いているのに注目してください。

しきりにとかくしつつ、ののしるうちにふけぬ。


「日しきりにとかくしつつ、」+「ののしるうちに」+「夜ふけぬ」
のように、「日」と「夜」が対応しています。

つまり、

「日しきりにとかくしつつ、ののしる」という文があり、
かつ、
「ののしるうちに、夜ふけぬ」と続いているということです。
「ののしる」が前後の文をつなぐ役目を果たしています。

従来は、
としごろよくくらべつる人々なむ、別れがたく思ひて、日しきりにとかくしつつ、ののしるうちに夜ふけぬ。

「なむ」の結びが「思ふ」にあるはずなんだけれども、流れてしまって、次に続いている、と説明されることが多いのですが、

小松氏は、上記の「日」と「夜」の対応構文の関係から、

「人々(なむ)」という主語の動詞が、「日しきりにとかくしつつ、ののしる」とあり、
続いて文が、「ののしる」という語を一種の鎖のようにして、「夜ふけぬ」と続いていると説明します。

つまり、「なむ」の結びは、「ののしる」にあり、それが流れている、というよりは、
「人々なむ、~ののしる。」と一旦は連体形で終わっているのだ、という解釈です。


一つの文法事項を確認するときも、
文法事項の知識が先にあって、「これは流れだな」と、お茶を濁してしまう従来の説明ではなく、

小松氏ののように、
内容が先にあり、
構文を考え、
そこで、始めて、係り結びの関係が見えてくる、という順序です。


堅実に読み解いていく姿勢に、脱帽です。



紀貫之のテクニックが垣間見られる一場面と言えましょう。

文学を研究する意味は、こういうところにあると思います。

たんに、係り結びなどを理解し、訳せればいい、というものではなく、
読むことにより、そのテクストの価値を最大限に引き出してあげる、
それが、研究者の努めだと思います。


さて、本文に戻りましょう。


「としごろくらべつる人々」というのは、4,5年もの土佐での暮らしで、親しくつきあってきた人たち、信頼できる人たち、のことを指します。



「別れがたく思ひて、日しきりにとかくしつつ、ののしるうちに、夜ふけぬ。」
別れがたく思って、昼間()はあれこれ、出発する準備やら、別れの挨拶やら(でしょう)をしながら、大騒ぎしているうちに、が更けてしまった。


昼間から夜になってしまうほど、この4,5年の間に、親しくつきあってきた人たちが多くなっていることを物語りますね。

そして、夜が更けてしまった。


ここまでくると、
門出が「戌のとき」(夜の8時)であったことが、わかってきます。


たかが、4,5年、されど、4,5年です。


これだけつきあいの深くなった土佐を離れることは、
たんに「都に帰れて嬉しい」という一言で片付けられる問題ではありません。


土佐日記は、その後も「むま(馬)のはなむけ」(お別れの儀式)が続きます。


そして、続く文では、
「京(みやこ)にて生まれたりし女児(おんなご)、国にて俄(にはか)に失せにしかば」と、
最愛の娘を亡くしたことが触れられます。


一体、これから始まる都への旅路は、どのような旅路なのだろうか。


都にとにかく帰りたい!!
という思いで、出発し、
都に到着するまでを記録した、旅日記、

という一面的な位置づけでは、まったく足らないのだということを
理解していただければと思います。


それでは、とりあえず、
いったん、土佐日記のお話は、終了します。

またの機会がありましたら、そこで。。。
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