伊勢物語とホモ [伊勢物語]
さあ、ここらでまとめておきます。
四回もに渡ってしまってすみませんでした。
前回まで、
娘をここみちゃん
父親をキムタク
ここみLOVEな男をとしちゃんとして、
このとしちゃんを、キムタク家おかかえマンにしてました。
改めて、
本文通りの設定でいきますね。
父親が在原業平をモデルにした「男」。
業平といえば、歌のスペシャリストです。
娘の名前はありません。
恋する男は、藤原敏行。
別にお仕えしている人ではありません。
業平と交流の深い人です。
平安時代の歌人、とされている人物でもあります。
さて、娘については、次のように書かれています。
「されど、若ければ、文もをさをさしからず、言葉も言ひ知らず、いはむや歌は詠まざりければ、かのあるじなる人、案を書きて書かせてやりけり。」
(業平の娘は、若くて、手紙などちゃんと対処できず、言葉もまだ不得手で、まして歌など読めないので、業平が書いた歌を娘に書かせて敏行に送った。)
ということで、
敏行は、業平の詠んだ歌に感動していた、というのが真実だったわけです。
これを解釈してみると、
当時は、父親が娘の恋のために、一肌脱ぐんですね~。
親がこんなに介入するなんてね。
女性本人が歌を書かなくても、代役で書くことは、当時当たり前なんですよね。
みたいなことが言えます。
間違いではありません。
それはそうなんですけど、ここでは別のことを強調していきたいと思います。
『伊勢物語』って、在原業平をモデルにした、ある男の一代記で、
この男の恋の遍歴を書いていく、
色好みの物語だ、という説明が文学史的には為されているかと思います。
ですが、どうでしょうか?
「身を知る雨」を通して見てみると、男女の恋の話というよりは、
業平と敏行の歌を通しての交流になってませんか??
表面的には恋の話をしているようでいて、
その実は、男同士の交流になっているんです。
敏行も手紙を受取って、それがまったく、業平の手が入ってないと思うはずないんですよ。
さっきも言ったように、親が介入するのは当然ですから。
それに返事が来て、その歌のレベルを知れば、
「ん?これは、業平が手を入れたか?」と勘ぐるでしょうし、
そもそも、手紙を出す前に、あの業平の娘に手紙を出すわけですから、
自分の手紙が読まれるのではないかと覚悟して、歌を詠むはずです。
つまり、「身を知る雨」は、男女の恋の歌のやりとりが書かれているのではなく、
業平と敏行のつながりが書かれているんですね。
一言でいえば、
ホモ・ソーシャルな世界
なんですよ、『伊勢物語』というのは!!
色好みの恋の物語、というのは、表面的でしかないんです。
たとえば、
かの有名な「東下り」の段もそうですよね?
恋に破れたか、政治的排除か知りませんが、
東国に下ったのは、妻や恋人を排除した、男のみ。
妻や恋人を慕うにしても、その歌を詠みあうのは、男同士。
男同士の共同体を再確認するのが主の目的。
また、業平が年をとってからもそうです。
惟喬の親王とのつながりです。
親王が出家したとしても、雪かきわけて会いに行くようなオレです。
という。
藤原敏行というのも、『伊勢物語』の中でちょこちょこ登場する男です。
どうでしょう!?
『伊勢物語』の世界観が、少し
変わったのじゃないでしょうか??
四回もに渡ってしまってすみませんでした。
前回まで、
娘をここみちゃん
父親をキムタク
ここみLOVEな男をとしちゃんとして、
このとしちゃんを、キムタク家おかかえマンにしてました。
改めて、
本文通りの設定でいきますね。
父親が在原業平をモデルにした「男」。
業平といえば、歌のスペシャリストです。
娘の名前はありません。
恋する男は、藤原敏行。
別にお仕えしている人ではありません。
業平と交流の深い人です。
平安時代の歌人、とされている人物でもあります。
さて、娘については、次のように書かれています。
「されど、若ければ、文もをさをさしからず、言葉も言ひ知らず、いはむや歌は詠まざりければ、かのあるじなる人、案を書きて書かせてやりけり。」
(業平の娘は、若くて、手紙などちゃんと対処できず、言葉もまだ不得手で、まして歌など読めないので、業平が書いた歌を娘に書かせて敏行に送った。)
ということで、
敏行は、業平の詠んだ歌に感動していた、というのが真実だったわけです。
これを解釈してみると、
当時は、父親が娘の恋のために、一肌脱ぐんですね~。
親がこんなに介入するなんてね。
女性本人が歌を書かなくても、代役で書くことは、当時当たり前なんですよね。
みたいなことが言えます。
間違いではありません。
それはそうなんですけど、ここでは別のことを強調していきたいと思います。
『伊勢物語』って、在原業平をモデルにした、ある男の一代記で、
この男の恋の遍歴を書いていく、
色好みの物語だ、という説明が文学史的には為されているかと思います。
ですが、どうでしょうか?
「身を知る雨」を通して見てみると、男女の恋の話というよりは、
業平と敏行の歌を通しての交流になってませんか??
表面的には恋の話をしているようでいて、
その実は、男同士の交流になっているんです。
敏行も手紙を受取って、それがまったく、業平の手が入ってないと思うはずないんですよ。
さっきも言ったように、親が介入するのは当然ですから。
それに返事が来て、その歌のレベルを知れば、
「ん?これは、業平が手を入れたか?」と勘ぐるでしょうし、
そもそも、手紙を出す前に、あの業平の娘に手紙を出すわけですから、
自分の手紙が読まれるのではないかと覚悟して、歌を詠むはずです。
つまり、「身を知る雨」は、男女の恋の歌のやりとりが書かれているのではなく、
業平と敏行のつながりが書かれているんですね。
一言でいえば、
ホモ・ソーシャルな世界
なんですよ、『伊勢物語』というのは!!
色好みの恋の物語、というのは、表面的でしかないんです。
たとえば、
かの有名な「東下り」の段もそうですよね?
恋に破れたか、政治的排除か知りませんが、
東国に下ったのは、妻や恋人を排除した、男のみ。
妻や恋人を慕うにしても、その歌を詠みあうのは、男同士。
男同士の共同体を再確認するのが主の目的。
また、業平が年をとってからもそうです。
惟喬の親王とのつながりです。
親王が出家したとしても、雪かきわけて会いに行くようなオレです。
という。
藤原敏行というのも、『伊勢物語』の中でちょこちょこ登場する男です。
どうでしょう!?
『伊勢物語』の世界観が、少し
変わったのじゃないでしょうか??
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